「学びて然る後に足らざるを知る」

  とは「礼記」に有り「学ばない人間はまだ人として足らないものだらけである」と言っている。簡単に言えば「人間になってはいない猿同然だ」と言う事である。

  義務教育の時代であるから、学んでない人は殆どいないはずだが、人はどう有るべきかと言う、「人間としての基本」を戦後の教育では教えてはいない。一部の私学や伝統校ではあるかもしれないが、殆どの学校ではただ教科の消化のみで手一杯の状態で、それも修得もしないまま、トコロテンしきに押し出され社会に出てしまう。「礼節や躾」、「善悪の区別」、等人間としての基本は親任せであり、学校のする事ではないと公言しているし、親の方も全く放任主義で育てられた欠陥人間である世代では、そんな事は学校で教えるべき事だと嘯いている始末では、個人とか、個性とか、価値観とかの陰で、これからも猿族人間が増え続け、「猿の惑星」化してしまうに違いない。

  最近の若者の引き起こす諸々の社会現象を見聞きする時、「何でそんな事が判断出来ないのか」と驚き呆れる事が多い。アイス クリームのショウケースの中に断りも無く寝そべってみたり、ハンバーガーの生地の上に大の字になってみたり、およそ馬鹿馬鹿しい幼児ですら遣らない事をやって、写真まで得意気に公表する。ある有名人の倅で、さるテレビ局の社員でもある立派な大 人が、路上の酔っ払いから鞄を盗み、カードを抜き取った上、これで現金を引き出そうとして逮捕されている。姑息で、卑劣で 、破廉恥な事件だ。この場合、父親が有名人であり、本人もれっきとしたマスコミの社員である事がニュース価値を上げたもの で、この程度の犯罪は日常茶飯事でありよくある話位のものだ。最近では、ストーカーが、夢に向かって希喜としていた女子高生をいきなり無残にも刺殺した事件等は聞いただけでも残念無念である。これらの事件で問題なのは、一時の衝動だけで、相手 の立場は無論のこと「親の立場」も「自分の立場」もその結果さえもブレーキにはならなかった事だ。その位の理性は社会人と して持っていて当たり前なのだが・・・・。

  最近の社会は知識や物質ばかりが氾濫して、全てに「心」が見えてこない、利害損得、享楽、便利さばかりが求められて、「理 念や情念」等人間として大事な事が疎かにされている。何処ででも人々が周囲にも気配りもなくスマホだけを見つめている異様 な風景を目にするが、スマホ等のIT機器を通じインターネットという膨大な空間を介してのコミュニケイションのみが蔓延し、 直接会って会話し議論し合う事が、非常に少なくなっているのは事実である。その為に「暖かさ」はもちろんの事、「意思」の 十分な疎通が図れず、寒々とした会話のない社会が人と人との繋がりを阻害している。私たちは物質の豊かさ便利さばかり求め ているが、「心」の豊かさを取り入れた社会であり家庭であるとは、決して言えない状態であることは否定出来まい。今からで も遅くは無い、「心の豊かさ」を含めた文化度の高い家庭や社会を取り戻す努力をしなければ、動物園の檻の中でいがみ合い、 殺し合い、自滅しながら生涯を終えなければならなくなる気がして来た。

2013年10月29日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ

「知は疑わしきを棄つるより大なるは莫く、行は過ち無きより大なるは莫く、事は悔い無きより大なるは莫し」

  性悪説を唱え後天的修養を重視した「荀子」の言葉で 「知識は疑わしい事は取り除き、行為は過失を犯さず、物事は後悔のないようにすることが肝要である」 と「指導者」は、かくあるべきであると言ったと言う。そのくらいに上に立つ人は言動に注意しなければならないのだ。

  安倍さんの 「汚染水は完全にコントロールされている」 発言が、国民を初め世界の疑念をより拡大してしまった感がある。ほんとうにそうなのか、事態はもっと深刻な状況にある事が明らかになってきている。小出しに伝えられる漏水の問題も、東電は最初から処理不可能と判断し、漏水を装って垂れ流し、膨大な海水で希釈してしまう意図があったと観られてもおかしくない程に、判明して来る状況とその稚拙で場当たり的対策を見ていると思わざるを得ない。あの林立する汚水タンクを見るとき、30年も40年も増え続ける事は想像も出来ないし、不可能である。大体一旦トラブレば全く自然消滅するまでなんの解決策も、コントロールも出来ない危険極まりないエネルギーを「コストの安いエネルギー」として使う判断を誰がしたのか、科学者の思い上がりだったのか、経営者の得られる利益ばかりを見ていた目先の損得判断だったのか、献金につられて安全を無視した政治家共の無責任さだったのか、全ては後の祭りである。

  今現在、原発の稼動はゼロだという、火力水力の従来型に加えて太陽光や風力等の新発電装置も有り電力は不足していない。それならば原発の稼動は諦めて、全てを時間を掛けて廃炉の方向に向かいながら、火力水力型をより効率の良いものに改良したり、小規模のものを各地域に増設したり、再生可能なエネルギーの利用の推進等があれば十分にまかなえることが出来る筈だ。もつと早い時期に判断されるべきだったが、福島の事故が決断の時ではなかったのか。事故処理と廃炉に掛かる何兆円もの費用と、被災地と被災者の保証に掛かる膨大な費用、まして故郷を失った人々の心のケアまでも考えれば、とても使えるはずが無いのではないのか。その上に使用済燃料である核廃棄物の膨大な未処理もそのままに、早期再稼動を政府に働き掛けるとは呆れ果てて言葉が無い。

  オリンピックで日本中が沸き立っているが、あの何にも復旧されていない東北被災地の事をさて置いて、何が出来るのだろうか。国民の、又世界の目を被災地や原発から背けさせる気ではないのか。あの何万人もの被災者、死亡者、行方不明者に受け入れられるとでも思っているのか。全てが他人事なのである。当事者の東京電力、政府関係者にはこの事は特に念頭から外してはならない事なのだ。

2013年09月29日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ

「仕 事」

  今日も三連休の中日で昨日から明日まで休日だそうだ。えっ明日は何の日だ、「海の日」だって、「何だそれ」。もうすぐ夏休みが始まれば「それ海だ、山だ」とたっぷり楽しめる筈なのに「何で今更、海の日なんだよ」。早速ネットで調べたら、なんと1996年から実施されていたんだそうな。なんで私だけ初めて知った気分なのか戸惑ってしまった。

  「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」日だそうだ。日本人は昔々から「森羅万象」全てに「神」の存在を信じ、感謝し畏敬の念をもって毎日を過ごして来たはずではなかったのか。改めて感謝する事だろうか、これは又何かと理由を作っては、仕事をサボる事ばかり考えている小役人達が、これまた同類の政治家とつるんで日本人を怠け者にする「仕掛け」ではなかったのか。あの悪評だった「ゆとり教育」のようなものではないのか。かくて確実に国民は「勤労」を嫌い、遊び大好き人間が蔓延して、三流国に成り下がりって来た事も事実だ。

  「私は一日たりとも、いわゆる労働というものをしたことはない。何をやっても楽しくてしかたがなかったからだ」。とはあのトーマス エジソンが言ったと聞いた事がある。「物の見方を一寸変えて、気持が仕事に前向きになると、興味が湧き楽しくなり、上手く出来るようになり、疲労も感じなく、報酬も増えて、人生を豊かに出来る、仕事は楽しくやるに限る」とはデール カーネギーが言ったと言う。

  現代は仕事が楽しくない、好きになれない人が多過ぎるのはなぜだろう。誰でも初めから嫌々遣っていては好きになれないのは当たり前ではないか。これも世の中に必要な仕事だ、誰かが遣らねばならない、たまたま私が遣る事になってしまったが、同じ遣るなら上手く遣ってやろう、と考えるととたんに楽しくなってくるものだ。

  私には、土日もなければ祝日なんて正月ぐらいしか解らない。頭から「仕事」が抜けたことが無いからだが。というと朝から晩まで真っ黒になって働いてばかりいるようだが、さにあらず、遊びもすれば、酒も飲む、人並み以上に女も好きだ。同様に「仕事」も好きなだけなのだ。つまり仕事と遊びの区別が無いのだ。24時間の中で大体決まってるのは食事時間だけでその他は全くのフリータイムなのだ、だから真夜中の11時頃から4時五時にかけて仕事をする事が多い、この時間帯は邪魔が入らず集中できて効率がいいからなのだが。かくて昼間には十分の遊び時間が取れる事になる。

  人生の過ごし方は千差万別でいい筈ではないのか、日本人は余りにも格一過ぎるし、価値観に多様性が無さ過ぎる。なんでも決められなければ行動に移れない、自主性が無いのか、従属性が強いのか、こんなところがつまらない役人や政治家に付けこまれてしまって来たのではないのか。

2013年07月14日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ

「功遂げ身退くは、天の道なり」

  老子に書かれている言葉で、「功成り、名遂げたならば、地位に連綿とせず、さっと身を引くのが正しい道である」という意味でしょう。

  最近、過去に名を成しえた方々が、名誉職に居座り続けた挙句、晩節を汚すケースが目立っている。
もっともご本人達は「私が知らなかっただけだ」「部下が起こした不祥事で個人の問題で組織の責任はない」等と全く重責ある立場を理解もしていないご様子なのには、呆れてものが言えないが、最高の地位を責任無しの単なるシンボル化してしまっている組織にも問題がある。それもボランティアならいざ知らず月給200万でその上年間交際費1000万とは恐れ入った役職である。全野連しかり、全柔連、相撲協会しかりである。

  世の中の古い組織は殆どが大同小異で、役職の順送り、天下りの温床でもある。これらがいつまでも改善されず悪化の一途であるから、いよいよと成れば膿も出てくるのである。しかしこの地位を狙って順番に列が出来ているのであるから、内部から改善など期待できるはずが無いのです。しかしこの「役職順番制」の組織構造は組織の硬直化となり、非効率、無責任化、無改革主義となるばかりでなく、膨大な無駄遣いなのが大問題なのである。「功を亡用に加えず、財を亡謂に損なわず」とは「漢書」に書かれていて「役に立たない事を仕事にしたり、意味のないことに財を使うな」と書かれれているところを見ると、有史以来全く改善されていないのであろうか。

  これらの全ての統治機構の改革を謳った「日本維新の会」は橋下代表の最近の言動により、端緒についたばかりなのに残念ながら凋落の道を辿りはじめてしまった。あの大阪知事に初当選し、県議会で涙を流しながら改革の必要性を訴えた姿は何処へ行ってしまったのだ。この大事な局面で自重しなければならない筈が、最近の「傲慢不遜」な態度は「改革への情熱」より大物振り、見栄を張ることに酔ってしまって、初心を忘れ「変身」してしまったかのようである。最後まで「黒子」を任じていた「坂本竜馬」との人物の違いが歴然としてきてしまっては「改革の旗手」が「改革潰し」になってしまっている。真の大物とは、そんな口先ではものは言わないものだ。

2013年06月29日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ

「知りて知らざるは上なり、知らずして知るは病(へい)なり」 「知る者は言わず、言う者は知らず」

  共に「老子」に書かれている言葉である。「知っていても知らない素振りをするのが一番良い、知らないのに知ったかぶりをするのは良くない」又「真実を知る者は何も言わない、軽々しく口にする者は真実を知らない者だ」という意味でしょう。

  「戦場慰安婦問題」で知ったかぶりで発言してしまった「橋下維新の会代表」に批判の声が上がっているのはけだし当然である。そういう一面が有る事も事実であろうが、誇り高き帝国軍人の中には一度も利用しなかった軍人も多数いた事も事実である。そのような軍人にとっては屈辱的発言と言わざるを得まい。過酷な戦場では奇麗事は通用しない事は容易に想像し得ることではあるが、そのような死を目前にした状況の中でさえ、尚人間として武人として尊厳を失わなかった方々が多数いたことも事実であったろうし、一方には「餓鬼」と化し強奪、暴行、陵辱、殺戮と犯罪の限りを重ねた事も悲しくも事実であったろう。戦争で最大の被害者は戦場と化した国民であり、婦女子ではないだろうか。だからこそ戦争などという解決策は絶対に執るべきではないのだが。

  それにしても、最近の「橋下発言」には支持者を認じて来た私でさえも耳を疑うものが多いのには、安易に人を信じてしまう我が身の未熟さに辟易しだしてきた。彼は今、ぽっと出の大阪の首長だけではなく、国政を担う議員集団の代表なのである。それもこの日本国に維新の風を起こそうとしている集団のであるから、もう少し「思慮と胆力」を持ち合わせてもらいたいものだ。もう一人の「石原代表」にも言える事だが、後で言い訳をしなければならないような事は軽々しく言うべきではないのだ。公人としての自覚も指導者としての思慮も足らない、はた迷惑な発言を軽々しくして物議をかもすのがお好きのようだが、自分の思想や価値観は友人達との雑談の中だけにして頂きたいものだ。もはや言いたい放題が言える立場ではないのだから、言いたい事も腹中に留め置き、時と場面を考慮して行動する「胆力」が必要ではないのか。

特に下半身に関する内容のものは、聞く方も余り気持ちのいいものではないし、お互いに人間として許しあえる範囲での「暗黙の了解」事項なのではないだろうか。

  「維新の会」の勢いにかげりが出て来ている今、こんな粗雑な発言をする気が知れない。日本に維新を起こす大目的はどうなってしまったのか、もう一度世間の人々を驚かす程の斬新で夢のある発言が必要な時なのである。小さな問題や過去の認識などに拘るより、これからの大問題に一石を投じて国民に希望を与える筈ではなかったのか。

論語に「速やかならんことを欲すればすなわち達せず、小利を見れば則ち大事成らず」とある。焦って事を成そうとすれば成功しないし、目先の事に目を取られていては大事を成しえないという言う意味だ。もう一度初心に戻りはらを据えて出直してもらいたい。

2013年05月29日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ

「器と名とは以って人に仮すべからず」

  孔子の政(まつりごと)の重要さを説いた言葉の一節である。その器(うつわ)でもない者に、地位や爵号等の名称を与えてはいけない。これを間違えると社会の秩序を守る事は出来ないと言う意味でしょう。「馬鹿ほど怖いものはない」、「狂人(きちがい)に刃物」等と、昔から自制心のない人間は何をするか解らない恐さがあった。最近の訳の解らない凶悪犯罪もそうだが、その最たるものが「北朝鮮」であろう、傍迷惑な話である。

  どんなひどい国でも「内政不干渉」が不文律であるから、他国民がとやかく口出す事は出来ないが、自国が脅かされるに至っては見て見ぬ振りも出来まい。「北」の国民も望んではいないだろうし、世界中の殆どの国は自国の問題で手詰まり状態なのに、いきなり「ミサイルをぶっ放すぞ」と吠え出したのには世界中の良民が驚き脅えてしまった。正に「気違いに刃物」である。十七八世紀ならいざ知らず、あの世界大戦を経験し、少しは賢くなり「共存共栄」が一番の道だと解っている筈のこの二十一世紀に、未だこんな国が存在している事事態が不思議であり、狂気の沙汰としか考えられない。閉鎖された社会の中で武器をもった軍部の台頭と政治の貧困から大事に至った日本やドイツの過去が繰り返されては成らないし、現在の武器弾薬の発達を考えれば悲惨さはその比ではない。

  こんな時ほど政治外交の力が発揮されねばならない時は無いであろうが、現代社会でも相手が狂人だったり無法者だったりした時には免れ得ない場合もある。善良な庶民がこんな無法者の手に掛かって、いきなり無為に命を奪われてしまう事が日常化している現代社会の欠陥部分を早く修正する必要があろう。これらの問題と北の問題はスケールの違いはあるが、似て非なるものでもない気がする。落ちこぼれ感、ひがみ、あせり、からいわれのない恨み敵意自暴自棄へとなって行く過程が見えるような気がする。その犯罪が常態化してしまってはもう救われまい、麻薬・偽ドル・誘拐・拉致・テロ・等と犯罪を繰り返してきたが、本人が死去したことでひょっとして改善されるかと世界中が見守っている中で、当初はその兆しも見えて来て成り行きを見ているうちに、ミサイルの試射に成功するや、突然豹変して本性を表し今まで改善されつつあった南とのルートも断ち切り、なりふり構わず世界を相手に戦争をも厭わない素振りで脅しに掛かった様は常人とはとても思えず、わがままに育てられ自制心もなく図体だけ大人になった未熟児、現代の犯罪者にも通じる身勝手な「幼児大人」が殺傷力のある銃を手に入れてしまったからさあ大変、ちょっと撃つ素振りをするだけで周りの大人が逃げ回るのが面白くて、脅かしているうちはいいが、どうしても撃ってみたくて、殺してみたくて仕方がなくなってしまう。

  こんな出鱈目なならず者が軍隊ばかりか核兵器まで持っていては、無事には治まりそうに無い。ここまで成るまで放置してきた周辺国にも大いに責任がある。周りの大人達がそれぞれ身勝手な理屈を言わずに、一致して脅し、すかしてでも武器を取り上げねば安心して寝る事も出来ない。その上で、全てが社会から隔絶し孤立している処に原因があるわけですから、交流が全ての解決策のように思えるが、独り善がりの独裁体制を無理に維持する事事態が全ての原因になっている。通信、情報の発達した現代ではその事事態が無理な事なのだから、自ら全ての独善的権力を捨てて国際社会に飛び込んでくる勇気があればいいのだが、社会も国際社会もそれ程冷たくはないし、かなりの許容力を以って受け入れられる筈である。自分の為にも社会の為にもそう願いたいものだ。

2013年04月25日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ

「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」

  初唐の劉希夷(りゅうきい)の作詩で二十六句からなる長詩の一節ですが、まさに名句ですね。あまり知られていない作者ですが、この一句はあまりにも有名ですばらしい句です。毎年毎年花は同じような姿を見せくれるが、それを見る人は毎年変わってしまっている、という句ですね。今年もまた花の季節が来て、爛漫の桜の花が春が来た事を見事に表現してくれ、日本の誇る最高の景観を楽しませてくれました。が一方たくさんの名優、や有名、無名人が亡くなり悲しみや寂しさをも味わらされる時節でもあります。特にこの長寿国で、七十の声も聞かずに逝かれた方々の、無念や如何ばかりかと思い遣り、心が沈んでしまいます。その事を思えば、わずかばかりの不幸を嘆いたり、悔やんだりせずに、今小康を得て生き長らえている事に感謝して毎日を充実させねば、先立った方々に申し訳が立たない気がしている。

  人が生き、その人なりの人生を過ごし、天寿を全うする。ただそれだけの事ではあるが、その間に、発明発見をしたり、物を作ったり、名演技や一芸に秀でていたり、ただ優しさだけだったりで世に何らかの貢献が出来た人は、何もしなかった人より幸せな人生であったはずですが、充実した人生を過ごした人ほど時間の少ない事に悩まされ、苦しみ、無念の心を残して逝ったに違いないのだ。この辺りに幸福の尺度があって、それは「お金」では買えないものなのだ。

  かつてのITバブル時代の寵児であった「ライブドアの堀江」さんが、この度刑期を終えて戻って来ての会見を聞いて、この人はやっと今、まともな大人になり、世の中には「お金」以上のものがあって、それが人生の目的ではない事に気が付いたようだ。世の中が「お金至上主義」に席巻され、子供ばかりか大人までが人生の目的、生きている価値を見失ってしまっている現状には良いお手本であったのだが、最近の「アベノミクス」の掛け声バブルには、まだまだ反省が足らない正体が見え始めている。資本主義社会の欠陥の部分ではないだろうか。安倍政権の調子に乗せられてばかりではとの危惧も感じられる。

  教育が芸術、芸能、文学等の文化を尊重し、これに親しみながら「豊かな心」の育成に務めなければ成らない時ではないのか、勝ち組負け組があまりにも経済活動に偏重し過ぎていないのか。本当の人生の目標を一人一人が自分なりの仕方で、価値観で求め追求して行ける成熟した大人社会を目指してみたいものだ。「学に非ざれば以て才を広むる無く、志に非ざれば以て学を成す無し」(学問無しでは才能を広げる事は出来ないし、志ががなければ学問は完成しない)。名軍師「諸葛亮」(しょかつりょう)が我が子に与えた訓戒である。

2013年03月29日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ

「憂勤に始まり、逸楽に終わる」

  とは「詩経」にある言葉であるが、この際一寸内容が違うけれど「一生懸命心込めて勤めればやがて最期には楽しい安楽の日々が訪れる」と言う意味では、私達の親の時代に始まった勤人(つとめにん=サラリーマン)生活を良く表していると思った。当時は「勤人」があらゆる職業の中でも安定した「収入」が得られる所から、望ましい職業のひとつであった時代だったのだ。であるから、「家業」が決まっている所では、家業を継いで、決まっていない家庭では、良い学校で良い成績を取って良い会社に勤め、そこで認められ係長、課長、部長、役員、運がよければ社長、と出世するのが目標のようになっていたものだ。そこでは、勤勉と熟練が重要視されたので、人々は競って会社に身も心も捧げて奉仕したものだ、そしてそれは今にして思えば単純だが迷いも無く、夢のような幸せな時代でもあった。そして燦然と輝く伝説的日本発展の歴史を作り上げて来たのもこの慎ましい勤め人たちであったのだった。

  ところが社会が豊かに成るに連れ文化が多様化し、職業も多種に亘り、なかには自由業等と何を遣ってるのか解らない人まで出てきて、その人の方が勤人より遥かに収入が良く羽振りが良かったので、次第に真面目に勤める人生が馬鹿馬鹿しくさえ見えてきた。ある種の学生は学業に専念するより遊びながら各種の情報やら、人脈漁りに明け暮れて、なかには最新の情報の為に渡米迄するほどになった。早くから米国社会に接した人々はタイプライターとコンピューターがやがて世界を席巻することを予感し飛び返って、見聞して来たことを国内で実践しはじめたのだった。この人達が今大成功し巨額なマネーを得て、社会を主導している。一方この融合された小型コンピューターは真空管からトランジスターへ、ICからLSIと進化して、より小型化し高性能化して、人間の能力を遥かに超えて万延していったので、そこには「勤勉と熟練」はもはや価値を失ってしまったのだ。いまパーソナルコンピューター(=PC)は急速に進化するので毎年買い換えないと時代遅れとなり、携帯電話は「スマホ」となって用途によってはパソコンより便利に進化してしまったから、これを駆使するか否かは差別が出来るほどになってきている。ましてPCもスマホも使えない人間は社会を狭くして進歩から置いて行かれているのだ。

  かくて「勤人」受難の時代へと変わってきた、不況に因る勤務先の減少、海外の安い労働力に職を奪われ、寡占化により中小の職場は淘汰され、機械化、自動化、IT化により人的労働力の減少と重なって来ては其れも致し方がないが、人的労働力の「質」の低下も見逃してはいけない。環境や社会の所為にばかりしては解決にはならない。周囲の変化に敏感に反応し、素早く吸収消化して、逆に人に先んじてこれを利用活用する位でなければ、現代社会では生き残れまい。そこには「勤勉、熟練」以上の「敏感」「吸収」「即応」「即活」が必要のようだ。ああ昭和は遠くなりにけり。
先日サラリーマン川柳で、「辞めてやる!」と言えば「いいのかい」と返された、と言うのが有ったけど、替わりは幾らでもいるということだが、だから幾らでもいる人間ではしょうがないと言う事なのだろう。

2013年02月20日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ

「将門には必ず将有り、相門には必ず相有り」

  とは「史記」に有る言葉で、孟嘗君が父親の田嬰を諫めた時の言葉と言われている。

  将軍の家からは必ず将軍たるべき人材が出てくるし、宰相の家からは必ず宰相たるべき人物が出てくる。と言う意味である。今回の選挙で特に気になった事項でもあり、「世襲」政治について考えてみた。

  よくある医者の息子が医者になり、学者の子が学者になるのは、八百屋の子が八百屋になり、農家の子が農業を継ぐのとは全然意味が違うのと同様に、政治家の子が政治家を目指すのは又かなり違っているし、違わなければ成らないはずである。その違う意味をを理解しているか否かが重要なポイントだが、その理解が出来てない連中が批判の対象になり、ひいては世襲批判の原因になっているのだ。

  「門前の小僧習わぬ経を読む」わけで、子供の時からその環境にあれば、それなりの心得が自然と得られ、親の背中を見てるだけでもそれなりの帝王学が生活の中からも会得できている筈である。もっともそれには、その親が立派な働きをした、今では死語になってしまった「井戸塀政治家」であった事が必須条件である。なぜなら近年政治家が多額の報酬と各種のお手当てで「黒塗りの高級車」を乗り回すようになって、他のどの職業よりも割りの良い職業になってからは、立派な政治家の話はとんと聞かれず、「質」は落ちるは、自分たちの事ばかりで奔走するは、浅ましい限りの「守銭奴」に成り下がってしまったからである。お陰で国は衰え乱れて、若者は意欲を失い、子供は減り、外国からは蔑視され軽んぜられて見る影も無くなって来てしまった。つまり「割の良い職業」であってはならないのだ。

  この度の政変で解った事だが、政治家はまるっきりの素人では空白か無駄を生じてしまう事である。やはり素地と学問とある程度の経験学習が必要である。その範囲では「その人を知らざればその親を見よ」という事も一理である。安倍総理、石破幹事長等を見ているとある程度の世襲も悪くは無いかとも思えてきた、アベノミクスと言われるいきなりの経済政策も今の日本にとってカンフルになりそうであるし、政治が主導している所が良いし、あの寝ぼけ白川総裁のケツを蹴っ飛ばしたところは流石だ。始動はじめとしては上出来であった。一方石破さんはやたらに語らず薄目の半白目で相手を威圧するところなどは、なかなかのキャラで大物の風格がある、この方々の世襲は良かったのだろう。日本の為に大いに期待したい。

2013年01月29日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ

「功ある者は自ら功有り、禍ある者は自ら禍有り」

  功績も災禍も天から来るものではなく、全て自分が日頃の行いを通じて招き得たものである。という意味で中唐の天説に書かれている言葉である。

  この度の衆議院選挙は、その意味に於いて因果応報がはっきり出て非常に興味深かった。おこぼれ当選であったり、予期せずに与党となってしまったり、夢にも見なかった大臣になってしまったりで、すっかり有頂天の夢心地で、何をどう遣って良いのかも判らない連中が、右往左往して「政治ごっこ」をしていた民主党の面々は、痛烈なストレートパンチ一発で完全にノックアウトと相成った。

  そんな連中の「恨み節」を聞かされたが、全て解散をした「野田総理大臣」が、判断を誤ったとか、先が読めない独り善がりの小さい人物だとか、話にもならない自爆テロだのと言いたい放題であるが、その言葉をそっくりその人間に投げ付けてやりたいと腹が立った。民主党の中で唯一光を放っていたのは野田さんであったから。

  特に、最期になれば成るほどに、本物だけが持っている「胆力」「知力」に迫力を増し、近年に無いすばらしい人材ぶりには惚れ惚れしてしまった程である。辞めさせるにはいかにも惜しい人材だったが、野田さん一人では如何ともし難い事態であったのだ。その中で見事に絶妙のタイミングと間合いで「伝家の宝刀」を抜き放った、正に居合いの名人と言っても良い技であったのだが、不心得な人間どもには其れが解らないし、またその位の人間しかいなかったのだ。その愚か者達がよってたかって、野田さんを吊るし上げたのには開いた口が塞がらない。馬鹿は死んでも治らないらしい。

  揺り戻しと敵失も重なって、自民党が思わぬ歴史的大勝となってしまったが、この三年余の民主党に破壊された日本を正常に戻すには、いったん「新生自民党」に任せるしかなかったのだから、これで良かったのだ。特に崩壊寸前の日本の回復には、即効性のある政策の実行が必要であるからだ。それにしても一寸した民意の変化が思わぬ大差になってしまう、現行の選挙制度にも改善の必要があろうが、国民が想像以上に良く見ているものだと感心させられた。くだらない政治家だと思っていた人は、ほとんど逆風の中で姿を消した、大物議員と言われた人でさえ辛うじて生き残ったか、厳しく審判され処断されていた。

  期待の「維新の会」は伸び悩んだが、人材不足、資金不足、時間不足のなかで善戦したと思う、「期待の芽」はしっかり残してもくれた。ご苦労さんでした。それにしても約半分しか投票に行かないのはなぜだ。もっともっと自国の政治に、若い人こそ関心を示さなければこの国は良くならない。

2012年12月29日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ