「口はすなわち心の門なり 」

  明の処世法を記した「菜根譚」にある言葉である。「口は禍のもと」からはじまって、「口を慎みなさい」との教えは、子供の頃から十分に聞かされ、教えられて来た筈なのだが、今以て大の大人である分別の有るべき50歳台の、しかも選ばれて議員にもなっている人間達が「失言」は無いだろう。その為に法律を作るべき大事な時間を割いて、処罰騒ぎで空しく時間と労力を費やしてしまうのを見るのは耐えられない。こんな未熟な人間を選んだのも悪いが、判った時点で排除して行く自浄制度をきちんとしておかないと、こんな馬鹿者の為に公費を無駄には出来まい。

  我が身を律する事も出来ない人間が、他人を律するとはおこがましいにも程がある。

  最近の社会は自分の事はもちろんだが、他人のことにも無関心で、自分が自由奔放に暮らしたいので、他人の過ちにも寛容というか、関わらないようにする風潮が助長されて、野放図な社会になってきている。ひと昔なら失言などしたら大恥を掻いて顔向け出来なかった筈なのだ。だから自重して自ずから口が重くなってきたものだ。つまりは無口が尊重され、人格者と思われたくらいであった。が近年テレビなどの影響もあるのだが、軽口冗談の類で他人を笑わせるのが、持て囃されるような風潮がある。失言も冗談も境目が無くなって来て、なんでも笑って済ませなれる環境ならいいが、それが公の場面で公の人間では許されまい。その辺のけじめも付けられない馬鹿者が議員であったり、大臣であったりしては国民が浮かばれない。

  日頃から真剣に事態の解決を考えていたなら、そのような軽率な軽口が出る筈がない。つまりは真剣さが欠如している証拠でもある。十分に自分の立場を理解し負託に応える心構えがあれば、自ずから発する言葉を選ぶ場面である。人間性や人格に問題ありと判った段階で、辞職させねばならない相応しくない下劣な人間共なのだ。そんな意味から、「言葉になって心が出てくる」のである。

2014年06月29日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ