「去る者は弊帷の如く、来る者は新衣の如し 」

  中唐の詩人王建の詩である。「過ぎ去るものは破れた古いとばりのようなもので、これから来る未来は新しい衣のようだ」と言う意味だが、しかしその鮮やかな美しさも時の移り変わりにより、古びてしまうのだ。と言っている。
この度の維新の会の分党騒ぎは、少々大人気ない感じがするのが残念である。あの日本の維新を目指して東西の指導者が合流した大目標は、なくなってしまったのか。同じ目的のためには、小異を捨て大同に付いたのではなかったのか。野党再編の核になる筈ではなかったのか。そこに国民の多くが支持し、期待していたのに、両党首とも自論の主張に拘り国民の目や存在をも忘れてはいまいか。核が分裂して小さくなり、お互いに仲間集めに狂奔するようでは、求心力は著しく弱まり、目標は遥かに遠のいてしまうにちがいない。

  橋下氏も一時の輝きが薄れ、自信過剰が仇になり、多少周囲の目を無視しやや暴走気味だし、石原氏は年齢からであろうか、多少頑迷に固執し、許容力に欠ける所がある。とは言えこの両氏の得難い「個性と能力」無しでは維新は成し得ない感じはする。その上、両氏とも俺が俺がと主張したい方なのが又悩ましいところなのだ。この辺りが彼の「坂本竜馬」との人間の大きさの違いでわなかろうか。論語にも「士は以って弘毅ならざるべからず」(道を求める志のある人は、心が広く意思が強固でなければならない)と書いてある。

  だがこの事が、野党再編の波が再燃する切っ掛けになり、国民の目がその事にふたたび呼び戻されるならば思わぬ幸いと言うべきだが。興石とか言う昔の亡霊が、未だに影響力を持っていて、党改革も出来ず、あの状態のまま続いている民主党には何の期待ももてないし、出だしは大変に威勢よく改革を唱えていたが、少々人気が出てきたのを良い事に、自分の懐肥やしに精を出してしまった渡辺代表率いるところの「みんなの党」にも、もう一人の亡霊小沢が影で操る「生活の党」にも、国民はもうこれ等烏合の衆の議員達にはうんざりしているのだ。ところが未だ希望の残っていた「日本維新の会」がこんなことでは、本当の政界再編はいつの事になるのだろうか。今のところ、評判以上にがんばっている安倍さん率いる自民党政治が、上手く行っているかに見える内に次期勢力を育成せねばなるまい。

2014年05月29日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ