よく考えてみると変な言葉だ。誰がどんな安全を保障してくれるというのか。今、日夜仕事に追い回されてる身で考えるには問題が有り過ぎ、大き過ぎて持 て余してしまう感じだが、世の中がやたらに騒々しいので考えざるを得ない。世の中に「安全」なんてあるのかな、「比較的安全」、「より安全」、はあっても「絶対安全」なんてあるわけないから何時でも何処でも「危険」と隣り合わせに生きてるわけだ。とすると我が身の安全は自分で守らなければ生きて行けないのが現実ではないのか。「絶対安全」妄想の中で生きて来たばかりに不慮の事故や、つまらない病気で早々と死んでしまった多くの人達を見聞きして来た。
歩道を歩いていて車に轢かれたり、医者に勧められて予防ワクチンを摂取したのが原因で死んだり、「簡単な手術ですよ」と勧められて沢山の人が死んでいたり、戸締りをしなかったばかりに見も知らぬ奴に殺されたり、あげくは警察官に殺されたりと最近のニュースだけでも数え切れない人が、身を守る「危機管意識」が欠如と迄はいかなくても疑わなかったばかりに、大事な命を失う羽目になってしまった事件が相次いで起きている事が残念でならない。「外に出たら七人の敵」「人を見たら泥棒と思え」「信じる前に疑え」等々私の子供時代には親も子供も、危険が一杯の世の中を必死で生きていたから「危機管理意識」と「運」に頼わざるをえなかった。お陰で現在まで生き永らえているのは有難いことだ。
いざと言う時は自分を守るのは自分しかないのだから、その時の為に密かに備えて置かねばならないのだ。自衛のために強盗を殺してしまう事があるかもしれないが、強盗にむざむざ殺される無念さを考えれば止むをえまい。個人の場合も国の場合も自衛の為の行為は、たとえそれが武力行使であっても許される行為である事は人道的にも、国際的にも認められている事項である。自衛の為の戦いをも禁じている「九条」そのものが全くの「違法」そのものであり、間違った安全神話の根源であるわけだ。米国に隷属するしか道がない原因なのだから、まずこの憲法を見直して、しっかりとした独立国を作り上げる努力をしないで、デモをしていても「安全」は降っては来ないのだ。