「口は是禍の門、舌は是身を斬る刀」

  中国の古い漢詩の一節である、続いて「口を閉じて深く舌を蔵せば、処処牢し(しょしょかたし=何処からも攻められない)」とある。つまり、「口は禍のもと」、「沈黙は金」なのである。

  不用意に軽はずみな事を言えば、結局自分がその事で切り捨てられてしまうの意味だ。

  最近の政治家の口の軽さと軽率さには、うんざりさせられている。であれば黙っていればいいものを何か言わなければ、との焦りからか発言しては言葉尻を捕えられてしまうのだ、もともと軽い頭で考えてはいたのだろうがその程度なのであろう。
  口下手といえば何と言ってもかつての大平総理である、あの「あぁぁ、うぅぅぅー」が懐かしくも眩しい想いがするのがやりきれない気 持ちだが。この「軽口」から国会は空転するわ、問責決議やらの連続で、何も決まらないでこの一年も過ぎてしまったのだ。今の日本は、ただでも高い歳費の多過ぎる国会議員達が無為に遊んで過ごせるような状態ではないのに。あー誰彼と無く切り捨ててしまいたいのだが、何も出来ないでとうとう師走になってしまった。と思ったら急に死人が蘇ったように、何やら画策しだして蠢き出したのには驚かされる。

  国民の為には何もせずに寝そべっていたくせに、自分達の生き延びる為となると必死に動き回るらしい。しかも又あの悪玉小沢とその一派が暗躍し出したとのことだ。小沢は言う「いざとなれば、私は日本の為にはなんでもする」と。呆れてものが言えないとはこの事だ。古くは「盗人猛々しい」という言葉があるが日本の為には政界から消えて貰いたい人間が「救国の志士」にでもなるらしい。あーこんな日本で良いのか、こんな政治家ばかりでいいわけが無い、暗い暗い見通しもつかない年の瀬になりそうだ。

2010年12月26日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ

「過ちを宥す(ゆるす)に大とする無く、故を刑するに小とする無し」

  「書経」にある言葉で、「過ちはあまりおおごとにしないで寛容に許しても、故意にやった犯罪は小さな事も見逃さず罰しなければならない、」というのだ。これに続いて、「罪の疑わしきはこれを軽くし、功の疑わしきはこれを重くす。」とあり現法の「疑わしきは罰せず」に通じるものである。先日のニュースで、あらためてこの事の真意を考えさせられた。

  人を殺し金を奪い、死体を切り刻んで海に捨てた、しかも同じ遣り方で二度も犯罪を犯して死刑の判決が決まった事件であるが、その時、裁判官が涙を流しながら「控訴を勧めた」とのことであり、トップニュースで美談として伝えられた事もあって、私は唖然としてしまった。この被告を死刑にしなければ死刑制度は必要ないのではないか。故意の犯罪であり、証拠隠滅という悪質極まりない残虐事件を二度も繰り返して同情されたのでは、残虐に殺された二人の被害者とその遺族は何にすがれば良いのか。一般の裁判員は長い時間その事に向き合っている内に感情に負けてしまっても、プロの裁判官は冷厳に判断すべきもので感情に流されてはならないのではないか。そもそも刑罰とは、「一を刑して百を正し、一を殺して万を慎む」「一罰百戒」である。私情を挟まず厳格に罰しなければ、刑罰の意味が薄れ世の乱れを誘う事になる。現にこんな乱れた日本になったのも、警察、検察、裁判官のプロ意識の薄れが原因の一つであると改めて思った。

2010年11月30日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ

「安危は令を出だす(いだす)に在り、存亡は任ずる所に在る」

  安全な国か否かは、その国の出す法律によって決まるが、国が存続するか滅亡するかは任用する人物によって決まってしまう。とは「史記」にある言葉である。

当に今、日本は存亡の危機に瀕しているのだが、菅総理とその集団ばかりか、野党の連中をも含め全く危機感がなく全くの無策である、この状態が続けば必ずや三等国以下になってしまう事は目に見えている。「人無くば国滅ぶ」である、やんぬるかな。
  命を賭けて日本国の基礎を敷いた坂本竜馬達志士の願いは、今や風前のともし火のである。彼らになんと詫びたらいいのか、言葉にはならずただ無念の拳を握り締めるしかない。

この20年もの長い経済不況、とくに最近の急激な円高による経済環境の崩壊と家族も含めた社会崩壊、凶悪悪質犯罪の増加、さらに最近の対外環境の悪化、等々限が無いほど全てが悪化の一途を辿っているのはまさに日本政治の劣化の結果である。いま大時化で船が翻弄されている時に、不健康で弱って来ていたベテラン船頭が倒れ、急遽見習い船頭が舵をとることになってしまって、何時沈没するのか判らない状態の中でさえも、船頭は直ぐに天候が回復すると高を括り、鼻歌を歌いながら舵を縛りつけたまま、俺も一流の船乗になったもんだとほくそ笑んでいるのだから堪らない。こんな状態になったのは何が悪かったのか真剣に考えて、即座に実行せねば海の藻屑になってからでは遅いのだ。

2010年10月26日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ

「天網恢恢(かいかい) 疎にして漏らさず」

  天の網は広くて大きいから、網目も粗いようだけれど決して逃れることは出来ない。と言う意味でこれも高校の教科書で学んだ。

  最近、状況や人品からして推定有罪と思われる事件が延々と時間をかけて裁判が続くケースが多い。決定的証拠がない事にもよるのだが、悪質な確信犯ほど証拠を隠滅したり偽装したり嘘までつき、その上元々性質(たち)が悪いから白々しく白を切るので善人は余計に判断が狂ってしまう。鈴木宗男、小沢一郎、押尾学、等のケースがそれだ。
  恥知らずの人間にかかれば性善説による法治国家は全く形無しである。誰も知らない事だと思っていても最低四人は知っているはずいう「四知」・・天知る、地知る、君知る、我知る、がある。知らぬ存ぜぬ等とは言わせない、「どうだ恐れ入ったか」と大岡越前守なら怒鳴った筈である。幸いな事に、鈴木宗男は有罪確定となったが、巨悪のボス小沢一郎は未だ白を切っているばかりか総理大臣にもなろうとさえしたのだ。「空いた口が塞がらない」と朝日新聞にも書かれたが、大方の庶民も議員の半数もそう思ったから、歴史を汚さずに済んでほっとした。

  こんな推定極悪人を担いで総理大臣にしようとする屑議員が200人もいるのだから日本は当分良くならない筈である。幸いな事には主だった能力ある議員が全て菅総理を推した事だった。しかしこの事は菅総理の能力を見限っていて次を狙っているとも言えるのだが。確かにはっきり言わせてもらえば菅さんも鳩山さんも総理の器ではない、指導力ばかりか知能もない、御輿として担ぐには軽い方が良いかも知れないが、国民にとっては大変不幸な事である。

  有能な人物を政治家に育て上げるシステムが切望されるのだ。「苛政は虎よりも猛なり」、 国民を苦しめる酷い政治もそうだが、無能な政治もまた然りである。

2010年09月24日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ

「学びて思わざれば則ちくらし、思いて学ばざれば則ち殆し」

  「論語」に書かれいる言葉です、「くらし」は網のように良く見えなくぼんやりしている、「あやうし」は「彼を知り己を知らば百戦殆うからず」の反対で、今にも負けそうで危険が一杯だの意味です。

  昨今の政治家達、特に総理大臣になった人達に感じていたことである。功なり名とげた方々には大変失礼ではあるが、皆さん立派な大学で学んだ経歴をお持ちで、なんら学歴に不足はないが、学びはしたけれど、自分の頭で考えて、学問を自分のものにして活かす事ができないから、学んだことが学歴以上の効果を現さないのである。

  最近民主党の「大塚耕平」氏と、みんなの党の「浅尾慶一郎」氏の討論を聞く機会があったが、お二人ともにその広い見識と冷静な判断力と共に、十分な表現力と人格を兼ね備えているのには感心した。このレベルの政治家ならいくら高い議員報酬も惜しくないし、日本の将来を託すに十分な方々であると思った。目的意識をしっかり持って人生を歩んでいる青年政治家の見本である。日頃その他大勢の無能政治家共にうんざりさせられていたので、特に際立って感じられたものだ。

  それにつけても、何の目的も希望もない若者が国中に溢れて、学ぶこともせず、思うこともせず、ただなんとなく生きてはいるが、なんの仕事もしようもしない植物状態の青年がごろごろいて、これを親が黙認し放置して、その上社会保障費で寝床と食事を与えて、無為に生かされている現状に、当人の人生も然る事ながら、日本の現状と将来を思うとき、暗澹たる気持ちに陥ってしまうのは私ばかりではないだろう。見識のない政治家と楽することしか考えない愚かな小役人に、一切を任せて来たこの半世紀で、日本人の殆どが劣等民族に成り下がってしまった感じがする。正に「殆うし(危うし)」である。

2010年07月30日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ

「羹 (あつもの)に懲りて膾 (なます) を吹く」

  人は一度痛い目に遭うとそれを避けるために愚かしい行動をもしてしまうの意味である

  「最小不幸」、かつてこんな日本語が使われたことは無かったと思う、菅総理大臣の第一声がこれであったのには驚いた。「最小不幸社会」を達成するのが国政の最高目的であると宣わったものだ。世の中に「死ぬよりましだ」と言う言葉があるが、そんな気がしてきた。夢も希望もない言葉である。まだ「最小不幸と最大幸福」の達成とまでぐらいは言って貰いたいものである。

  日本語としても最悪の言葉であろう、いくら理工系の総理大臣でも美しい日本語をおとしめる様な事はしてもらいたくないものだ。そういえば、前総理の鳩山さんも理工系出身であったが、(理屈に拘り必然的に結果が予測できるのが理数科の強みの筈なのだが)出来もしない根拠もない夢ばかり羅列して、何も出来ずに惨敗したことはまだ記憶に新しい。そのことに懲りたばかりに、今度は国民に現実の不幸を直視させ、夢を与えず期待を持たせない戦法に切り換えた積もりなのかもしれないが、表現が最低で最悪だ。

  人材不足の政界が現在の政治不信を招いていることは事実だが、少なくても日本国のトップリーダーには国民を心服させ、その言葉を信じて、よしこの人なら、従って行こうと思わせる位の人物になって貰いたいものだ。こうも何代にもわたって役不足の総理大臣を並べられると、国民の活力をも減退させるどころか、奪ってしまっていることに責任を感じて貰いたいものだ。

2010年06月25日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ

「馬 鹿」

  梵語の「慕何」(ぼか)からきた言葉と言われているが、俗説の秦の良く知られた故事「鹿をさして馬となす」の方が面白い。

  紀元前221年に初めて中国を統一した秦の「始皇帝」はリーダーとして素晴らしい才能を発揮した優れた指導者であった。早くも郡県制を採用し中央集権専制国家をつくりあげ、文字、貨幣、度量衡、車軌、思想等の統一を成し遂げ、分散していた長城を繋ぎ上げて「万里の長城」を完成した。

  これほどの人物でも身近に信頼する部下を置かず、始皇帝が旅の途中で病死した時に、身近にいたのは「宦官」(かんがん=男性器を切除した身分の低い召使)の「趙高」だけであった。趙高はこの事を悪用し皇帝の死を隠し、皇帝に成り代わって権力を振るい策謀をめぐらし皇帝の末っ子の「胡亥」(こがい)を抱き込んで二世皇帝として、自分が権力を握ると元々が卑しい人間の出ですからやりたい放題となり、次は自分が皇帝になる野心を持つようになった。そこで役人達が自分の言うことをどのくらいきくのか試したくなり、百官の居並ぶ前で、鹿を引き出して皇帝に「馬でございます」と言って献上した。皇帝は「これは鹿ではないか」と言ったが、「趙高」に睨まれた役人達は口をそろえて「陛下、これは馬でございます」と言ったという。

  二千年も昔の故事ではあるが、今私の頭はこの事で一杯となり、馬鹿、馬鹿、馬鹿と割れんばかりに痛いほど叩くのである。この間の物質文明の進歩は著しいが、精神構造や社会体制は全然まったく進歩してない事が判って愕然とするばかりである。確か秦も三代目で滅んでしまったのだ。

2010年05月23日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ

「将となる三世の者は必ず敗る」

  紀元前の歴史家であった「司馬遷」(しばせん)の著書の「史記」にある名言の一つである。人の上に立つものが三代も続けば必ず敗れて滅ぶものだ、という意味であろう。

司馬遷の名言には、「臥薪嘗胆」をはじめとして「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」など、高校の漢文の教科書に必ず載っているほど良く知られたものが多い。正に歴史的真理なのだ。

  日本の政治崩壊が世界の十大リスクの五番目に入っているのには、驚くとともに嘆かわしくて思わず絶句してしまった。事ここに至っても暴動はおろか怒りの声さえ起こらないのは、目前のちっぽけな幸せのために飼いならされてしまったのか、魂を抜かれてしまったに違いない。

  民主主義の武器は選挙権と被選挙権しかないのだから、これを最大限に活用する手をよくよく考えて実行するしかない。間違っても汚名を垂れ流したり、金に汚い奴や、志の低い者等がどんなに頭を下げて来ても、絶対に投票しないことだ。それは自分の幸せばかりか子供達の将来までも投げ出してしまうほど恐ろしい事なのだから。また立候補をする人は自分の事より公の事を第一に考える志の高い人にお願いしたいものだ。優れた教育者で思想家であり、多数の志士たちに影響を与えた吉田松陰は三十歳で処刑されてしまったが、「私を役して公に殉う者を大人と為す」と教えていた。司馬遷は「家貧しければ良妻を思い、国乱れれば良相を思う」とも述べている。そういえば、小沢先生も鳩山先生もたしか三代目だったと思う。

2010年04月24日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ

「天 誅」

  天に代わって罰することであるが、現代の法治国家では検察と裁判所しか罪を問うたり罰を与えたりは出来ない。この度水戸に観梅に行く事になり、ついでに「桜田門外の変」のオープンセットも見学する機会があって、一挙に時代をさかのぼってみることになった。

  時代の節目節目には、止むに止まれぬ思いに命を掛けた若者達がいて、時代を変え日本を変えてきた歴史の事実が今私の心に重く圧し掛かって来た。一見愚行の様に見えても、命を掛けた行為には、その発するエネルギーと迫力や重さが人の心を動かしてその行動が切っ掛けとなり、次の行動に向かう人々の心を動かして来たのだ。情報の少ない中で諸外国の圧力を恐れ不平等で一方的な「日米修好通商条約」に攘夷派の反対を無視し違勅調印してしまった幕末の大老井伊直弼も、この事以上に後に続く「安政の大獄」などにより彼を日本を危うくする「国賊」として天誅を企てた関鉄之助以下18名の水戸浪士(内一名は薩摩藩士)も、どちらも命懸けで日本の国を憂いた結果であった。

  日本人は「八百万(やおよろず)の神」以来「神」への畏敬の念が生活の基本にあって、規律が守られて来た経緯がある。自然神であれ祖先神であれ全てのものに神の御心を感じて、これに従い恥じない心が規律正しい国民性の支えであって、謙虚にひた向きな生き方を形作って来たのだが、今日無秩序に尊大になり、神をも恐れぬ不届きな行為ですら恬として恥じない人間が跋扈するに至っては、悲しいことに天罰までも期待してしまうほど無力感に苛まされてしまうのは私だけではないだろう。私達は、歴史に生きるこれらの命を掛けた志士達の霊に対し、こんな神も仏もない日本の現状を何と言って詫びればいいのだろうか。

2010年03月30日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ

「寅 年」

  日本人の生活の中に深く根付いている「干支」に由来するのだが、年が変わるごとにやれ牛だ、虎だと話題になり一喜一憂する。私も寅年生まれなので、虎には人一倍の思い入れがあって、若い頃に「虎の会」なるものを作って虎を自認する仲間が集って、楽しみや生きがいを共有してきた。虎をより強く意識することが今までの人生に大いに影響してきた事も事実である。

  これ程に影響する「干支」とはなんぞや、通常は「えと」と読むが本来「かんし」と読み、十干十二支の意味であって、甲乙丙丁戌己庚辛壬癸の十干と、子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の十二支のことである。この組み合わせで60年で一回りとなるのである。

  さて、虎は千里走って千里戻るといわれその行動力の大きさと、寅を「いん」と読みよく動くさまを言うところから、今年に期待するものは大きいのだが、現実ははなはだ絶望的である。やっと政治改革元年かといわれながらスタートはしたが、その後のもたつきはなにより鳩山首相の力量指導力不足によるものだが、きわだって小沢一郎の政治の私物化による混乱はその極に至る状態であるのが問題である。倫理はおろか常識さえわきまえない、一人の時代遅れの恥知らずな守銭奴政治屋に、この文明国日本が振り回されているのが現状である。なんという情ない姿であろうか、今この現状に民主党に投票した国民の8割以上が後悔して歯軋りを噛んでいるのだが、次の選挙まで待たねば答えが出せないのだ。まさに「画虎類狗」か「虎の威を借りた狐」と言ったところであろうか、もはや偽者では何事も処置できない難しい時代になってしまったのだから、今こそ本物を求め見つけ出していく力を持たねばならない。昨今のデフレの影響でか安物偽物横行の風潮があるが、心まで毒されないように注意しなければならない。

2010年01月24日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ