「クリスマス」

  師走ともなると町中いたる所にツリーがキラキラ輝いて、ジングルベルのメロディが鳴り響いていたのはいつ頃だったのか、遠い昔の思い出のように思われる。サンタクロース姿の客引きが袖を引っ張り、三角帽子の酔っ払いが怒鳴ったり歌ったり、人の波で満足に歩けない程賑わった師走の町は、何処へ行ってしまったのか、今はただ懐かしくも感じられるのは、あまりにも閑散とし暗く寂しい夜の風景の所為だったのだ。キリスト教信者でもないのに、なんであんなに浮かれたのか浮かれられたのか、不思議な思いで懐かしんでいる。きっとあの時代には弾ける切っ掛けを皆が欲しがっていたのかもしれなかった、が今は弾けたいとも浮かれたいとも思わないほど冷え切っているのだ。

  株安、円高、不況、デフレスパイラル、政治不信、毎日毎日こんな忌むべき言葉の渦中に居れば心の底まで冷え込んでしまっても不思議ではない。ここまで落ち込むまで何も手を打たないで成り行きに任せ、言葉だけは回復基調を唱えつづけていた政治家共と、馬鹿政治家を陰で操りわが世の春を満喫していた欺瞞官僚に、欺かれ続けながらも搾取に耐えながら必死に働いてきた中小零細な事業家達も、今や矢尽き刀折れ次々討ち死にしてしまっている状態である。今先進国の中で最も不況で回復の見込みさえ付いていないのは、偏に優れた政治家を育てて来なかった国民に付けが回って来たのだ。我々一人一人が本物を見分ける眼を持たねばならない。昨日のテレビで、あの小沢が我が国は民主主義の国だ、天皇といえども国民が選んだ俺の言うことが聞けねえのかと吼えた。岩手県民に目を覚ませと言いたい。

2009年12月21日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ

「師 走」

  今年も何も出来ないうちに師走になってしまった。

  事業年度とは違って、人の心に与える影響は大きいものがある。現代は太陽暦であるから、通常の月は数字月で呼ばれるのは当然ですが、なぜか12月だけは陰暦の「師走」と呼んで違和感もないのはおもしろい、むしろその表す生活感が慌ただしさを良く肌に感じさせてくれている。

  この一年の罪障を懺悔し消滅を祈る法会のために、僧侶が年末に大忙しとなることからきているとされているが,「為終」「歳終」とも云われている。何れにしても、何も出来なかった人も、罪を犯してしまった人も、何もしないで不平不満ばかり言っていた人も、誰も彼もが自分自身を返り見て反省をして、この月で心の整理をして新しい門出を迎えたいものである。それにしても事ここに至っても恬として恥じない人がなんと多いことか、今こそ心の文化度を高める時ではないのか。年末になると犯罪が急増するに至っては論外であろう。

2009年12月01日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ

「人心一新」

  マンネリにおちいり気力を失った人の心が、何かの切っ掛けで又やる気が復活することである。なるほど音もなく立ち枯れ自民党が崩れ去って、民主党の新政権が誕生した時は、心の中の暗雲が吹き飛んで秋晴れの青空が見え出したと、期待にやる気が起き出したものだったが、なかなか快晴とはいかない。なにしろ50年以上も続いた官僚主導を民主主義政治の根幹である政治主導に戻そうというのだから大変だ。とにかく改革は始まったのだから、時間が掛かっても挫折のないように我慢して見守って行くしかないだろう。

  しかし、まだなかなか退かない暗雲が残っているのも人心一新に繋がらない原因でもあるだ。それは金権疑惑の小沢さんが黒幕で、献金疑惑の鳩山さんが総理大臣であるからである。こんな問題を抱えた政権を、国民は信じ切れるのであろうか。やはりこのような疑惑の人は早々に退いてというより、排除して本当に一新して貰いたいものだが、なぜこの国ではそんな判り切ったことがはっきり出来ないのか、不思議でならない。このような暗部がなくならない内は本当の改革など夢のまた夢である。

2009年10月30日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ

「KY」

  ご存知のように、「空気が読めない」人を評する新語であって確かに一昔前には無かった言葉である。
  というより島国の日本では、絶えず周りの人々との関わりを意識しながらでなければ、生きずらい社会構造になっていたのだが、いつの頃からか、このような「しがらみ」を全く意識しない自分本位な人種が、大変な勢いで増殖している事も事実である。

  その殆どは若い世代なのだが熟年以上にも存在し、それが今日本の国に混乱を起こしているのだから無視する事は出来ないのだ。麻生太郎とその取り巻き連中である。この一年近い期間、国民はもとより仲間の自民党議員の意向など屁とも思わずに、訳の解からない自分に都合のよい大儀とやらで、国民を騙し続けて恬として恥じない姿に、国民の方が完全に狂わされてしまった。

  その間手をこまねいて何も出来ずに一緒になって踊っていた大方の自民党議員も同罪であり、今回の大敗は、これらに対するイライラが高じた国民の怒り心頭に達した結果であるのだが、本人は永年の自民党政治に対する批判だとのたまわって、これから自民党再生にも努力したいとのご意向だと言うから恐れ入った「K.Y」のボスである。確かに四分位はそれもあったが、大敗を決定的にしたのはお前なのだ。議員の中でも大方の人はそう思いながらも、面と向かっては批判も争いもせずにズルズルと引き摺られた挙句雁首を揃えて討ち死にとは、この連中もまた「K.Y」グループなのだ。こんな自分の事さえ判断のつかない連中に長期間任せっぱなしで来た結果が、国内には様々の誤魔化しが蔓延し、後進国にさえ追い上げられ、先進国のなかで一番不況は深刻で立ち直りさえままならない状態である。今度の政変が衆愚政治の繰り返しにならなければいいのだが。

2009年09月28日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ

「ひたむき」

  なんという気持ちのよい響きであろうか。これほど最も日本的で又最も日本人に似合う言葉はないと思う。だが現在では、一部の方々を除いては、殆ど死語に近いほど接する事が無くなってしまったのに気が付いた。残念ながら、それはそれに相応しい姿に接する事が少なくなってきたからであろう。

  「いちず」とは意味は近いがニュアンスが一寸違う。苦しくても、辛くてもひたすら目指した道を目的に向かって一歩一歩歩み続ける姿が見る人の心を打つのである。額の汗と人知れず流す涙がよく似合うし、またそれを拭う手が美しい。思わず目頭が熱くなる感動のシーンである。宮里藍・・・この度メジャーで初優勝したシーンをテレビで見た時に、久方ぶりにこの言葉と感動を思い出させて貰った。国内で連勝し始めると、直ぐにメジャーを目指し渡米するも、勝てそうで勝てず苦しんで低迷した時期もあり、やはり通用しないで戻って来るのだろうかと思っていた。 しかし彼女はその度に「課題が判ったから見込みがついたのでいつでも勝てますよ」というような強気の発言を繰りかえした。その弱味を見せない姿には、あの藍ちゃんの可愛らしさはもうなくなっていたから見る機会も少なくなっていた。ところがこのたびの決勝戦を観てその成長した勝負師としての毅然とした姿に驚かされた。強さと心の余裕さえ感じさせてくれた。が最後のパットが決まった瞬間、帽子のひさしで顔をおさえて涙を隠した姿には今までの苦労が滲み出ていた。そのはしゃがずに終始落ち着いた態度には、「人事を尽くして天命を待つ」という勝負の世界に生きる厳しさを十分に解っている姿が見えた。おめでとう。お父さんお母さん、本当におめでとう。

2009年08月25日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ

「巧言令色 鮮きかな仁」

  高校の漢文の教科書にも載っていた、孔子の言葉、つまり論語にある教えである。

  人に気に入られようと、言葉を巧みに弄び、愛想笑いをするような人間には「仁徳」を備えた人はいないものだ、という意味だ。鮮き、は「すくなき」と読み、少ない、稀、と言う意味があると習った。もともと活きが良い、あざやか、の意味なのだが、冷凍技術なんてなかった昔には、新鮮な魚は手に入らなかったのだろうか、全く逆の意味のようだが、論点は漢字の難しさではない。最近もっとも見たくないものは、麻生総理大臣の顔である。これが毎日何回も登場してくるものだから、このところ気分がよくないし体調まで崩れてしまった、しかもデジタルの特大画面一杯に鮮やかにであるから堪らない。

  四十過ぎの顔は自分が作り上げた顔である、けっして親の所為ではない。この人の卑しさ醜さしか感じられないのは私の偏見なのかもしれないが、高貴までは期待しないがせめて品格、教養、思慮、位は感じたいものである。なにしろ文明国「日本」の代表なのだから。こんなたぐいの人間を選んだ人も、総理にまでした議員たちも自民党も良くこの顔を視て、何を感じるのか聞きたいものだ。

  せめて語らず、苦虫を噛んで、カメラを睨め付けていれば良いのだが、浅はかに良くしゃべり、絶えずニヤついて、庶民にさえ下から愛想笑いをしてる姿には、高い志があるとも、日本国への責任の重大さも全く感じられない、厚顔無恥としか言いようがない。ついでに言うと民主党の小沢さんの傲岸不遜な顔も見たくない顔である。選挙も近いので選ぶ人の顔を良く視て、語る言葉を良く聞いて中身までも見抜いて選びたいものである。

2009年07月30日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ

「意なく、必なく、固なく、我なし」

  論語によると、孔子先生はこの四つの欠点を表さない優れた方であったと書いてある。つまり人格者は意、必、固、我、のいずれもが持ってはならないものであるらしい。しかし私は、これらは現代の若者たちに欠格しているものではないかと思った、とすると現代っ子たちは孔子にも劣らない人格者達である筈だが、とも思って岩波の漢語辞典を開いて見た。意は心の動き、こころばせ。必は必ず持っていなければならないもので期する心であり、固はかたくしっかりしたものであり、我は主体としての自己とある。

  ここでますます我が意を得たりと相成るわけであるが、どっこいそうは簡単には行かない。なにしろ相手は二千数百年に渡り人間の教科書とされてきた孔子であり論語だからである。それこそ杜撰な解釈として軽率の謗りを免れ得ないのだ。意が主観だけで憶測することであり、必は自分の考えを押し通すことであり、固は固執であり、我は我を通す事だからだと解説されていた。これだから漢字文化は幾つになっても理解し切れない底の深さがある、日常語として使っているものでもこれだから、このうえ外国語などとは所詮キャパを越えた話で、虻蜂取らずの果てに鷹の餌食になる羽目になるのだ

2009年06月30日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ

「酒は飲むべし、飲まれるべからず」

  最近は街中で、いわゆるべろんべろんの酔払いを見かけることは稀である。一昔前には、宵闇迫る頃ともなると、駅の周辺には正体をなくした酔払いが溢れ返っていたものだった。反吐と小便の臭いが充満して、息を詰め顔を背け駆け抜けたものだった。やはり酒は「心の憂さの捨て処」だつたのだろうか。生活が向上するに従って減少して来たのは、「衣食足りて礼節を知る」ってことなのか。

  この度の、草薙剛氏のニュースには薬物ではない「酒」の怖さを改めて考えさせられた。昔は「気違い水」とも言われた時代もあり、禁酒法さえあった時代もあったが、全く意識を失ってしまう事になるとは恐ろしいものである。「悪酒は悪人の如く、相攻むること刀箭より劇し」と蘇軾の詩にあるが、当に彼は一刀の下に斬り捨てられてしまったようだ。この場合は彼にとって運が悪かったし、周囲ももう少し寛容であっても良かったのではないだろうか。誰も被害を被っていない様だし、彼にとっては「桃源郷に遊ぶが如し」だったように思われるふしがあるからだ。法治国では往々にして人間性を否定され、個人の尊厳すら否定されてしまう場合もあるという事も考えておかないとならないのだろう。蘇軾は言う「人其の酔うを見るも、吾は中了然たり」でなければならない。心しよう。

2009年04月30日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ

「法治国家って常識が通らないの?」

  まずは、普段は何も考えないで、当然のように法治社会の恩恵の中で気ままに生活していて、さして不自由も差し障りもない有難い国に生まれ育ったことに感謝したい。ところがこの平和な社会の秩序を無視したり乱したりする者が現れると、途端に法律で雁字搦めになって全く自由のない、自分の常識さえ怪しくなってしまうような社会に一変することになるのだ。「法」の役割は、個人が幸せに生活出来ることを保障してくれることにあるわけですが、いわゆる常識という最低限の人倫や社会規範等が底辺にあって成り立っているものだから、これさえも無視されてしまうと、法も秩序もあったものではない。最近の社会現象はそんな訳の解らない連中によって所謂「公序良俗」を掻き乱されて、混沌として整理がつかない状況なのではないか。

  そのうえ厄介なのは、「価値観の多様性」とか「価値観が違う」と言う奴だ。この一言で常識的には「悪」が「善」に肩を並べてしまう始末なのだから恐れ入ってしまう。言ってみれば何でも有りって言う「魔法の言葉」なのだ。良く政治の世界で使われる「リベラル」なんて言うカタカナ言葉も全く実体の掴めない怪しげなものなのだ。これらは法の解釈以前の問題であるのに、その上法の解釈にも又諸説が有る様では、混乱しないほうがおかしいのだ。

2009年03月30日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ

「必死」とは

  命懸けでとか我が身を省みず死すら覚悟してとかの意味ではあるが、今の日本ではそんな意味合いではなく、よく言う「命を賭して事に当たりたいと存じます」というような内容がない形容詞の一つでしかないようである。

つまりは「心」もないのに心にもない言葉を軽々しく使って、恬として恥じない見せ掛けだけの人間が横行していて、周りの人間も咎めるどころか不快感も違和感も感じない世の中は当に末世としか言いようがないのだ。

  漢字が読めない総理大臣が話題になっているが、漢字が読めなくても志が高くその必死の心が伝われば、誰も軽蔑をするはずがないのだが、いかんせん肝心の心が伝わらないと言うか伝えるべき心がないのだから始末が悪い。上がそうなら押して知るべしであろうが酩酊大臣に至っては論外である。政界には恥を知らない人間が多いようだ。このような己の稚拙ささえ判らない破廉恥な人間どもがなぜ大臣にまで上り詰められるのか、庶民にはとても理解しえないことだ。

  一昔前なら怒れる志士が刺し違えてでも即刻排除しただろうに、今はその緊張感さえなくだらだらと際限もなく醜態を見続けねばならない。これが民主国家であり、法治国家の姿なのだろうか、日本国民として、今度こそ必死で考えねばならない時であろう。

2009年02月21日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ