また不条理で残虐な事件が起こってしまって、衝撃と絶望と空しさとやり場のない怒りに苛まれている。何故なのか、なんでそんなに簡単に人を殺せるのか、理解に苦しんでいる。特に理由もなく単に「人を殺してみたかった」に至っては、狂っていると思わざるをえない。加害者が一人の時はそれでも理解したような気がするが、複数の場合はその動機は全く違っている。ある種の優越感、英雄気取り、見せしめ、制裁、ゲーム感覚、遊び等の自分らの欲求の捌け口であったりするのだろうか。いずれにしてもその時、罪悪感や自制心等がブレーキにはならなかったのか、全く理解できない。それが相手ばかりか自分の人生をも破壊してしまう行為であることが恐怖と躊躇にならないのは、精神構造がどうなっているのだろうか。もはや最低の人間条件が欠落している。
上村少年の事件はその純朴な人柄と共に人々の悲しみとやり場のない悔しさが噴出してきた。なんという軽々しく人の命を奪ってしまった事件だろう。余りにも稚拙で遊びの延長のような現場から犯人はすぐに割れたが、少年達という事で慎重に隠密に進められ確証を得てからの事情聴取となった。加害者の親は早い段階で知っていたのか、周囲には「うちの子は無関係」を公言し、弁護士を雇い、息子には「何も言うな」と口止めをする始末だ。「この親にしてこの子あり」、原因は親にあったのだ。そう言えば全ての原因が、被害者の親も周囲の関係する大人達も含めて全部大人社会にあったのだ。
人間の最低条件をも満たさない大人達がなんと多いことか、なんと増殖して来ている事か。「心」より「お金」や「知識」「効率」が重要視された戦後の教育や国づくりに起因するものでもあり、各先進国にも共通している問題でもある。それは資本主義にも、自由民主主義にも根っ子があり、これらが確実に「テロ」の蔓延に繋がっている。人類がPCやスマホ等「血も心も無い」情報機器に操られ、ロボット化しコピー化していくのが「恐れ」以上の「現実」になってきている。早い幼児段階での「心の教育」を急がねばならない。