「自己責任」

  小冒険や、冬山等でも、トラブルにでもなれば各方面の方々に傍迷惑を掛け、自己責任を問われる事もめずらしい事ではない。完全にルールに従って行動していたと思っていても、その行動の結果が周囲の人々になんらかの悪影響を及ぼしたり、迷惑を掛けたり、危害を与えてしまったり、することは、複雑で密接な人間社会のとの関わりの中ではよく起こり得ることである。

  であるから、基本的礼儀作法から始まって、種々雑多な決まり事である社会規範や、各方面の法律によって規制されているのが社会人なのだ。そしてその窮屈な縛りの中で、許された範囲の中で、それぞれが切磋琢磨しながら努力して、自分自身の生活と人生を確立する努力を日々続けているのが一般的社会人なのだ。

  よく社会保障問題の中でも議論が絶えない問題で、努力したのかしなかったのか、計画的に目的を持って人生を歩んだのか、ただ欲望の赴くままにその日暮しを続けて行き詰まったのか、これらの人々を同じ土俵の上で同じ判定が出来るのか。その上怠けていた結果の困窮者にも補助金が給付される、それが平等な社会といえるのかである。どんな人生を歩もうと勝手でしょう、と言う人ほど社会に依存して暮らしていたりする。これは身勝手と言うべきだが、これを楽に人生を楽しんでいると言われたら、何をかいわんやである。

  さて最近日本中を巻き込み国際問題にまで拡大した「自己責任問題」が起こってしまった。二人の日本人人質問題である。事情は既によく知られているので省いて、この問題だけを考えて見たい。後藤さんの方は前後のいきさつや、日頃の活動からも止むを得なかった事情が推察され同情を禁じえないが、湯川さんの方は、目的が希薄で準備不足、言葉も通じない状態で、突然思い立って、わざわざ危険地域で渡航が禁止されていたにも拘らず行ってしまった挙句、後藤さんを巻き添えにし、日本中をも巻き込み、莫大な費用と時間を浪費させて最悪の結果を招いてしまった。こうゆう分別も自己管理能力はおろか、危機意識さえない人間には「自己責任論」など空しく空々しい。自由な民主主義国とは、より一層の縛りも法律も厳しくせねば成り立たなくなる。

2015年01月05日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ