「憂勤に始まり、逸楽に終わる」

  とは「詩経」にある言葉であるが、この際一寸内容が違うけれど「一生懸命心込めて勤めればやがて最期には楽しい安楽の日々が訪れる」と言う意味では、私達の親の時代に始まった勤人(つとめにん=サラリーマン)生活を良く表していると思った。当時は「勤人」があらゆる職業の中でも安定した「収入」が得られる所から、望ましい職業のひとつであった時代だったのだ。であるから、「家業」が決まっている所では、家業を継いで、決まっていない家庭では、良い学校で良い成績を取って良い会社に勤め、そこで認められ係長、課長、部長、役員、運がよければ社長、と出世するのが目標のようになっていたものだ。そこでは、勤勉と熟練が重要視されたので、人々は競って会社に身も心も捧げて奉仕したものだ、そしてそれは今にして思えば単純だが迷いも無く、夢のような幸せな時代でもあった。そして燦然と輝く伝説的日本発展の歴史を作り上げて来たのもこの慎ましい勤め人たちであったのだった。

  ところが社会が豊かに成るに連れ文化が多様化し、職業も多種に亘り、なかには自由業等と何を遣ってるのか解らない人まで出てきて、その人の方が勤人より遥かに収入が良く羽振りが良かったので、次第に真面目に勤める人生が馬鹿馬鹿しくさえ見えてきた。ある種の学生は学業に専念するより遊びながら各種の情報やら、人脈漁りに明け暮れて、なかには最新の情報の為に渡米迄するほどになった。早くから米国社会に接した人々はタイプライターとコンピューターがやがて世界を席巻することを予感し飛び返って、見聞して来たことを国内で実践しはじめたのだった。この人達が今大成功し巨額なマネーを得て、社会を主導している。一方この融合された小型コンピューターは真空管からトランジスターへ、ICからLSIと進化して、より小型化し高性能化して、人間の能力を遥かに超えて万延していったので、そこには「勤勉と熟練」はもはや価値を失ってしまったのだ。いまパーソナルコンピューター(=PC)は急速に進化するので毎年買い換えないと時代遅れとなり、携帯電話は「スマホ」となって用途によってはパソコンより便利に進化してしまったから、これを駆使するか否かは差別が出来るほどになってきている。ましてPCもスマホも使えない人間は社会を狭くして進歩から置いて行かれているのだ。

  かくて「勤人」受難の時代へと変わってきた、不況に因る勤務先の減少、海外の安い労働力に職を奪われ、寡占化により中小の職場は淘汰され、機械化、自動化、IT化により人的労働力の減少と重なって来ては其れも致し方がないが、人的労働力の「質」の低下も見逃してはいけない。環境や社会の所為にばかりしては解決にはならない。周囲の変化に敏感に反応し、素早く吸収消化して、逆に人に先んじてこれを利用活用する位でなければ、現代社会では生き残れまい。そこには「勤勉、熟練」以上の「敏感」「吸収」「即応」「即活」が必要のようだ。ああ昭和は遠くなりにけり。
先日サラリーマン川柳で、「辞めてやる!」と言えば「いいのかい」と返された、と言うのが有ったけど、替わりは幾らでもいるということだが、だから幾らでもいる人間ではしょうがないと言う事なのだろう。

2013年02月20日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ