「無用の用」

  一見無用のように思われる事に実は重要な解決の鍵がある、という意味の「荘子」にある言葉である。人は皆「有用の用」は知りても「無用の用」を知る無きなり。社会がより近代化されると効率化を求められる為に、より早い結果を出さなければならなくなるので、賢いと言われる人ほど目先の有用さに飛付いて、一見無用に見える物には一顧だにしなくなる。その結果上辺ばかりの薄っぺら社会と軽薄な人間ばかりが目に付くことになり、時間を掛けて、より正しい判断がなされなくなってしまう。思想や哲学が軽視され経済効果だけが判断の条件になってしまう、経済や産業界では、これも致し方なしということで時間の掛かる事は大学や学者に頼る事になるが、此処に現代の落とし穴がある。

  一方我らの零細企業においては逆に最先端技術や効率化ばかりには知識、資本、人材、スケール等の障害のために直ぐには入り込めないのが実情である。いくら勉強会に参加したり、ハウツウものを読み漁ったりしても簡単にはいかないし、「生兵法は大怪我のもと」になるのが落ちだろう。長年今の仕事に携わって来たことで誰よりも熟知し限りない程のハウツウを身に付けているいるわけですから、例え時代遅れのローテクでも良く見直してみれば、現代のハイテクの時代にも十分活用できる物があるはずである。つまり持ち腐れしている宝物をもう一度ほこりを払って磨いてみればまだまだ使えるどころか、ハイテクにも対抗できるものがきっとある。そう言った基礎技術の積み重ねや基礎学問を軽視して来た付けが津波災害を大きくし、原発事故を引き起こしたとも言えるのではないかとよく考えてみよう。

2011年07月27日 | カテゴリー : 今月の一言 | 投稿者 : ハンドレッドリーダーズ