天に代わって罰することであるが、現代の法治国家では検察と裁判所しか罪を問うたり罰を与えたりは出来ない。この度水戸に観梅に行く事になり、ついでに「桜田門外の変」のオープンセットも見学する機会があって、一挙に時代をさかのぼってみることになった。
時代の節目節目には、止むに止まれぬ思いに命を掛けた若者達がいて、時代を変え日本を変えてきた歴史の事実が今私の心に重く圧し掛かって来た。一見愚行の様に見えても、命を掛けた行為には、その発するエネルギーと迫力や重さが人の心を動かしてその行動が切っ掛けとなり、次の行動に向かう人々の心を動かして来たのだ。情報の少ない中で諸外国の圧力を恐れ不平等で一方的な「日米修好通商条約」に攘夷派の反対を無視し違勅調印してしまった幕末の大老井伊直弼も、この事以上に後に続く「安政の大獄」などにより彼を日本を危うくする「国賊」として天誅を企てた関鉄之助以下18名の水戸浪士(内一名は薩摩藩士)も、どちらも命懸けで日本の国を憂いた結果であった。
日本人は「八百万(やおよろず)の神」以来「神」への畏敬の念が生活の基本にあって、規律が守られて来た経緯がある。自然神であれ祖先神であれ全てのものに神の御心を感じて、これに従い恥じない心が規律正しい国民性の支えであって、謙虚にひた向きな生き方を形作って来たのだが、今日無秩序に尊大になり、神をも恐れぬ不届きな行為ですら恬として恥じない人間が跋扈するに至っては、悲しいことに天罰までも期待してしまうほど無力感に苛まされてしまうのは私だけではないだろう。私達は、歴史に生きるこれらの命を掛けた志士達の霊に対し、こんな神も仏もない日本の現状を何と言って詫びればいいのだろうか。