今ほど「心」が行動を左右する時代はなかったかと思われる。それは人心を惑わす情報が簡単に手に入るというより襲い掛かり、錯綜して渦となり、人々を呑み込み翻弄しているかに見えるからだ。
最近良く使われる、英語の「マインド」というと何かしら特に軽薄さを感じ、惑わされ浮ついた人心を象徴しているかに聞こえるのは私だけだろうか。今その「マインド」に左右されて世界的恐慌が起ころうとしているが、もともと浮ついた情報に踊らされてきた付けが回って来たに過ぎないのだが。実体のない経済を弄び、虚構に喜び踊った付けである。そして大半の人々が、此処に至っても其のことに気付かずにいることは恐ろしいことである。 では何事にも惑わされない強い心とは、どうすれば手に入れられるのか。「健全な心は健全な肉体に宿る」と子供の頃に良く言い聞かされたものだが、健全な体でなくても、いや健全でないからこそ強く崇高な心を持っている多くの人を知っている。ここに心の不思議で奥深いところがある。「心」とは何だろうか、頭脳でもないことは確かである。心が頭脳を支配することはあっても頭脳が心を支配することは出来ないからだ。
よく「心」とか「ハート」とかを表現するのに心臓を指し示したり、手を置いたりするが、心臓にあるわけではないだろう。やはり頭脳「に宿る」か「から発しられる」と考えるのが自然であろう。とするとよく言われる「知性」に近い処に存在すると推察すると、この「知性」を豊かに育てることが肝要なのかもしれない。