「書経」にある言葉で、「過ちはあまりおおごとにしないで寛容に許しても、故意にやった犯罪は小さな事も見逃さず罰しなければならない、」というのだ。これに続いて、「罪の疑わしきはこれを軽くし、功の疑わしきはこれを重くす。」とあり現法の「疑わしきは罰せず」に通じるものである。先日のニュースで、あらためてこの事の真意を考えさせられた。
人を殺し金を奪い、死体を切り刻んで海に捨てた、しかも同じ遣り方で二度も犯罪を犯して死刑の判決が決まった事件であるが、その時、裁判官が涙を流しながら「控訴を勧めた」とのことであり、トップニュースで美談として伝えられた事もあって、私は唖然としてしまった。この被告を死刑にしなければ死刑制度は必要ないのではないか。故意の犯罪であり、証拠隠滅という悪質極まりない残虐事件を二度も繰り返して同情されたのでは、残虐に殺された二人の被害者とその遺族は何にすがれば良いのか。一般の裁判員は長い時間その事に向き合っている内に感情に負けてしまっても、プロの裁判官は冷厳に判断すべきもので感情に流されてはならないのではないか。そもそも刑罰とは、「一を刑して百を正し、一を殺して万を慎む」「一罰百戒」である。私情を挟まず厳格に罰しなければ、刑罰の意味が薄れ世の乱れを誘う事になる。現にこんな乱れた日本になったのも、警察、検察、裁判官のプロ意識の薄れが原因の一つであると改めて思った。